日本人と松茸〜室町時代〜

私たち日本人が、これまでの歴史の中でどのように松茸を愛でてきたのかを「日本人と松茸」と題して文化の面からお届けする第3弾。今回は、松茸の記録が急増し始めた室町時代のお話です。
初等教育用教科書にも松茸料理の記述がある室町時代
室町時代(1336年~1573年)は、足利尊氏が征夷大将軍に補任され、京都の室町に幕府を開いたことから始まります。農民や商人の社会進出が可能になり、民衆が勢力として台頭し始めた乱世の時代でもあります。人と物資が活発に動き、農業や工業の技術が目覚ましく向上しました。能狂言・華道・茶道・料理・庭園など今の代表的な日本文化の礎が生まれたのが室町時代と言われています。

国立国会図書館デジタルコレクション
上の画像は「慕帰絵詞(ぼきえことば)」の第5巻の私家選集の段にあります。この「慕帰絵詞」は、浄土真宗の僧で本願寺第3代法主、覚如上人(かくにょしょうにん)の伝記を描いた絵巻です。(1351年完成)頬杖をついて思案している覚如と、立烏帽子に狩衣姿の公家たちの歌会中の様子を見ることができます。その部屋から廊下を隔てた向かいの台所では、料理人たちが談笑しながら会席料理を作っています。茶器やお椀、お盆が置かれた棚の上段に、こんもりと盛られているきのこが松茸です。焼いて食べるのか汁物にするのかは、ちょっとこの絵からわかりませんが、覚如上人たちはこの立派な松茸を美味しく食べていたことでしょう。(松茸を描いた絵として日本最古のものと言われています。)
室町時代初期に作成された往来物「庭訓往来(ていきんおうらい)」。往来物(おうらいもの)とは、平安時代後期から明治時代初頭にかけて子供達の教育を支えた教科書の総称です。その中に、仏法を説くための会合や集会に供される食事のメニューが書かれています。
『菜は、蕪の酢漬け、茗荷、茄子、胡瓜、納豆、(中略)塩海苔、酒煎の松茸、滑茸、平茸の雁煎』
古い注釈によると、酒煎りの松茸は「味噌を少し入れて酒を以て煎るなり」、平茸の雁煎りは「平茸には味噌を入れて煮て白水を以て入れて酒を加えるなり」との調理法になっています。現代のように隠し味にお酒を使い始めたのは、酒造りが盛んになり酒造業が急成長した室町時代からのようです。
また、1367年成立の往来物「新札往来(しんさつおうらい)」には
『茶子者、榛(はしばみ)、胡桃、栢実、海苔、干棗、杏仁、干松茸』
と、茶菓子として干し松茸が登場しています。採れたての松茸を陰干しにして保存する干松茸。料理の際は、煮るか、戻す方法として水を加えて練った土に挿し桶を被せていました。酒煎り松茸や干し松茸、どちらも初級教科書に載るくらいですから、高級食材として一部の間でしか食べられていなかった松茸が、徐々に一般の人々へ広まり始めたのがわかります。都で他の山の幸と一緒に棚売りされていたのかもしれません。それによって、松茸のあらゆる調理法が考案されたのでしょう。
ほかにも、武家・公家の松茸狩りの姿や、寺院で進物として内裏への献上品として賞玩されていた記述、公家の間で晩御飯のもてなしに松茸汁を出した様子など、様々な松茸に関する記録が文献として残っています。
室町時代における産業や農業の発展と共に、京都近郊では、乱世の戦火に焼かれた寺社・邸宅・民家の再建や日々の燃料に使うための伐木、新たな寺院や武家の山荘建設のための山麓開発、農作業拡大のための森林伐採が多々行われました。これにより山が痩せ、植生が変化して出来た松林に、たくさんの松茸が発生したのです。
アイ・エム・ビー(iMb)では、日本人のロマンとも呼べる松茸の人工栽培実現へ向けて、研究を重ねています。