日本人と松茸〜鎌倉時代〜

松茸狩り

私たち日本人が愛してやまない松茸。これまでの歴史の中でどのような関わりを持ってきたのか。それを「日本人と松茸」と題して文化の面から紐解いていきたいと思います。

高級食材として大事に扱われ
宮中に仕える女性たちが松茸狩りを楽しんでいた鎌倉時代

 

●徒然草●

時は鎌倉時代(1185年~1333年)末期、「つれづれなるままに、日暮らし硯に向かいて・・・」という序段が有名な、日本三大随筆のひとつ「徒然草」の中で、作者の吉田兼好はこう言っています。

『鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉、松茸などは、御湯殿(おゆどの)の上に懸かりたるも苦しからず。その外(ほか)は心うきことなり。』

【意訳】鯉だけは天皇の前でも活け造りにされるくらい特別な魚である。鳥の中でも雉(きじ)は素晴らしいものである。雉や松茸などは御湯殿上(おゆどののうえ)の間に懸けて置かれていても見苦しくない。それ以外のものが置かれるのは感心しない。(※御湯殿上とは、宮中で飲用の湯を沸かしたり、食べ物を調えたりする座敷のこと。)

高級食材である鯉や雉と一緒に松茸もその御湯殿上に置くに相応しく、選ばれた高貴な人のための食材であるということがわかります。

松茸栽培・前賢故実 吉田兼好
菊池容斎筆の伝記集「前賢故實(ぜんけんこじつ)」第8巻より、吉田兼好の肖像画
国立国会図書館デジタルコレクション

 

●明月記●

日本の代表的な歌道宗匠として有名な鎌倉時代の公家、藤原定家(ふじわらのさだいえ)が約60年に渡って綴った日記「明月記」にも松茸に関する記事があります。藤原定家が、京都郊外にある九条兼実(くじょうかねざね)の建てた新造の御所に招かれたときの話。

『良久しくして、女房松茸をみんがために北山に入る。よって御前を走り渡り、又御堂の方に向ふ。この間、法印並びに阿闍梨(あじゃり)其等頻りに招請す。誘引に依り、片角に入り着座す。酒饌(しゅせん)を居う。但し甚だ異様にして、松茸の形なし。』

【意訳】しばらくしてから女性たちは松茸を採るために北山に行った。定家は寺の法印や阿闍梨に酒の席へ招かれた。しかし、おかしなことに(女性たちは松茸を取りに山へ行ったというのに)そこには松茸の姿がなかった。

というような、定家が松茸を食べることができずに残念がる様子や

『朝霜雪の如し。午の時許りに宰相来る。一昨日招引に依り円明寺に供奉(ぐぶ)し、山に登る。水に臨み松茸千万。但し雨降る。』

【意訳】昼頃、息子の為家が来て、西園寺公経(さいおんじきんつね)に招かれ、西山の円明寺(京都府乙訓郡大山崎町)へ行くために山に登った。その山中にある川に面した松林にはおびただしいほどの松茸が生えていた。雨も降っていた。

というように、息子の藤原為家による、西山にたくさんの松茸が生えていたという報告も記録されています。

ほかにも、鎌倉時代中期の女官、藤原経子(ふじわらのけいし)による宮廷文学「中務内侍日記(なかつかさのないしにっき)」内に、女性たちの松茸狩りについて述べた文章もあります。

松茸栽培・京都北山
秋の京都北山

 

知る人ぞ知る食材だった松茸も歌集などの書物に載る事で広がりを見せてはいましたが、鎌倉時代にはいっても、まだまだ特別なきのことして大事に扱われ、身分の高い人々の食卓へ献上されていました。そして、宮中に仕える女性たちの楽しみのひとつとして松茸狩りが流行っていたようです。

 

アイ・エム・ビー(iMb)では、日本人のロマンとも呼べる松茸の人工栽培実現へ向けて、研究を重ねています。